ネコミミにひかりあれ

エッセイを書いています。

それは火花や閃光のような言葉ではなくて

SNS全盛の時代にどうしてブログを書き続けているのだろう。
頑張って言語化すると灯台にあかりを灯すような文章を読みたいから、自分もずっと書いている」ということになる、と思う。今ひとつ、いや今ふたつぐらい自信がない比喩だけど、今の自分にはそういう感覚が強い。

2005年ごろから様々なブログサービスを使っているので、気がつくと20年近くインターネットに文章を書き続けていることになる。誰に頼まれたわけでもなく仕事でもないのに、一体、どうしてずっと書き続けているのか自分でもよく分かっていない。

どうして書き続けているのかといえば、たぶん「書かずにはいられない」からだ。癖と言ってもいい。
その最たるものがSNSで、自分のタイムラインには自分の脳から直に出力されたような言葉が並んでいる。ここまでSNSが生活に浸透しきると、読むのも書くのもSNS内というのは少なくない。探しに行かなくても言葉がそこかしこに流れていくのだ。ブログをわざわざブラウザのブックマークから読みに行く、ということはあまりやらなくなった。

私の場合、SNSに投稿するものはすべて小間切れの言葉で、リアルタイムのものだ。まとまっていない、脳から直に湧き出てくる言葉がSNSに流れていく。だからすぐ消したりするし、あまり人に読まれなくてよいと思っている。SNSは文章投稿ツールではなく、私の中ではコミュニケーションツールだから(だからクソ診断と呼ばれる意味のない診断の結果を連投したりするのが好きだ)。
SNSに流れる言葉の奔流の中にはいわゆる「バズ」を目指した言葉がたくさんある。派手な言葉たちに影響されて買い物をすることはたくさんあって、そういう言葉が流れてくると「おバズり申し上げてますなあ」と思ったりする。
でも、私がずっとインターネットで読んできた文章はそういうものではなかったはずだ。
その場でぱっと弾ける火花や閃光のような強い言葉ではなくて、「そこにある」という気配がある文章を私は読みたくて、インターネットを回遊しているのではないか。かつてブックマークに溢れていたブログ群には、そういう気配がたくさんあった。

私には熱心に読んでいたブログがあって、その人から学んだことがたくさんある。かっこいいファッションブランドも、緑色の瓶に入った聞き慣れない炭酸水も、塩豚なる保存食も、みんなその人のブログを過去何年分かすべて読み切って得た知識だった。
今思えばその人のファンだったのだけど、熱狂的に「推す」という対象ではなかった。熱を帯びる視線の先にいて崇拝する対象ではなくて、ただそこに気配があると嬉しいとか、入った喫茶店に偶然いると嬉しい、みたいな対象だった。あ、あの人おしゃれだな、みたいな距離感。
私はインターネットに溢れる文章なら、そういう距離感のものを読み続けたい。

そういうブログを読んでいて、私も、そういうブログを書きたいと思ったのだ。
SNS全盛期に敢えてブログを書き続ける意味は、そこにしかないと思う。
そして私が書き続けていれば、いずれ誰かが私のように書き始めてくれるかもしれない。自分でブログという灯台にあかりを灯し続けているのは、ここにいるよ、と言い続けるためだ。「まず隗より始めよ」と古典で習ったことが、ここに活きている。
書き続けていれば、自ずと誰かが見つけてくれる気がしている。インターネットは私が思っているよりも狭いようで、私が大昔やっていた二次創作を読んでいたという人といつか知り合ったことがある。誰が読んでいるのか分からなかった自分の二次創作物を、目の前の人が読んでいた、というのはかなり衝撃的だった。
そのようにして、書き続けていると誰かと目が合うことはあるのだと思う。駅前の喫茶店に決まった時間に現れる人たちのように、知り合いにはならずとも「あ、あの人知っている」という気配があるだろう。そういう文章が読めたらいい。だから、私も書きたい。そういう文章を読むために、私が、書き続けるのだ。
狭い半径をにぶい光で照らし出す灯台のようなブログがたくさんインターネットにはあるはずで、そういう人たちもきっと他の灯台を探している、と信じている。

私は昔、誰かの探し物になりたかった。誰かの目的物として求められたかったし、誰かが何かを検索した先に「ここにありますよ」と差し出せるものを提供したかった。
その最たるものがライブレポートで、誰にだって喜ばれる目的物だった。レポートとは名ばかりの、行ったライブの記憶を頼りにMCを書き起こすというものだったけど、まあまあ喜ばれて嬉しかった。有用で、誰かの役に立つ文章。
だけどそれは今、SNSハッシュタグを追ったほうが効率がいい。時系列も詳細も分かるし、あの時皆が読みたがったMCは、いろんな人がライブが終わった瞬間に書いている。だからもう、私はそれを書かなくていいのだ。

発火する一瞬の輝きではなくて、継続してそこを照らし続けてくれる文章を読みたいし、書きたい。そこにある、そこにいる、と思えるもの。昂る体験を高い熱量のまま書き散らした、火花のような言葉の奔流ではなく、つらいときにふとブックマークから辿ればいつでもそこにあって、狭い半径を灯台のように照らしてくれると思える文章。

だから私はずっと書き続けている。
あなたもずっと書き続けてほしい。私が読み続けるから。

特別お題「わたしがブログを書く理由