ネコミミにひかりあれ

エッセイを書いています。

生活はタグ付けできない

インターネットを回遊していると、何から何までブランドというか、すべてタグづけ出来そうな生活の人がいる。
洋服も、頭の先から爪先まで全部タグ付けできて、トレンド全部盛り、みたいな。もしくはコレクション買いみたいな。
もちろんそういう暮らしに憧れがないわけじゃないけど、自分には「過ぎた暮らし」だなあと思ってしまう。

リニューアル前のクウネルがすごく好きだった。
鈴木るみ子とかの文章がすごく好きだったこともあるけど、何より、あのコピーが好きだった。

ストーリーのあるモノと暮らし。

もちろんマガジンハウスなのでちょっとハイソな感じはするのだが(紹介されているレシピがちょっと面倒だったり)、
でも今のマガジンハウスにはない愛らしさがここにあった気がする。
お鍋の焦げを愛するような。知らないおばさん、おばあさん、もよく載っていた。

己の身を振り返ってみる。もちろんタグ付けできるものも持っている。
でも、部屋着は20年ぐらい前にGAPで買ってずっと着ているTシャツだし、在宅勤務の日はだいたい無印良品の下着だ。
靴下なんてスーパーの2階にあるような衣料品店で買ったかもしれない。
お茶碗も、お椀も、フライパンもそう。インテリアも、郊外の雑貨屋で買ったものだ。

インテリアや生活雑貨までブランドもので揃えてタグ付けを可能にすることに、哲学を感じないわけではない。
六本木のLiving Motifなんて行くと私には到底手が出ない(そして違いがわからない)白い皿が売っていたりする。
佇まいが美しいのだ。
そういう生活ができない自分が、SNS疲れではないけど、すごく惨めになることがある。結構ある。

でも、生活はそうあるだけでいい、と私を抱きしめて慰めてくれるのは、クウネルのコピーだった。
私の使ってきた食器には、机には、すべてにストーリーがある。貧乏人の戯言かもしれないけど。

いつかあれを買った、これを使った、という記憶は生活のそこかしこに染み付いている。
いつか下北沢の、もう無い雑貨屋に母とグラスを買いに行った。
いつか近所のスーパーの食器を買った。
そういう記憶が、私を私たらしめているのではないかと思う。

タグ付け、ブランドもの、そういうものの中に自分がいないと思うわけではない。もちろんいる。
私が苦労して手に入れたCELINEのクラシックボックスの中には間違いなく私がいる。
ただ、そういうタグ付けからあぶれてしまった、純然たる暮らしの道具の中に、私はなんだか好ましいものが宿っているように思う。

それは近年もてはやされているように思う「暮らし系」ではない。
実家の母から受け継いだとか、気づいたら使っていたとか、そういう風景だ。
そしてそれはあまりタグ付けされないように思う。