ネコミミにひかりあれ

エッセイを書いています。

いい年になった心の中に空席が目立つ

いい年になったな、と思う。
実家でぬくぬく過ごし続けている私にも「いい年になってしまった」と思う瞬間が増えた。それって大人になった、と同義かもしれない。自信はないけど。
たとえば会社の新入社員紹介で生まれ年の西暦が19始まりではなくて20始まりだった時とか、初めて触ったポケモンが赤青緑ではなかった時とか。
極め付けは「おジャ魔女どれみ」ではなく「プリキュア」だった時とか。セーラームーンとか明日のナージャじゃないんだ、みたいな気持ちになるのだ。

なんかそのようにして、いい年になったな、と思うことが増えた。
ふと、自分がもう失ってしまって、二度と会わないだろう人がこんなにいるんだってことにも気づいてしまった。

どちらの両親の祖父母も、もうとっくにいなくなった。
母方の祖母の女学校時代の同級生で、私に毎年なにか煌びやかな誕生日カードやクリスマスカードをくれた女性も、そういえばいなくなってしまった。
祖母の近所の友達は、まだ何人か顔を見れば分かるけど、大半はいなくなった。

亡くなってはいないけど、インターネットで繋がっていない人たちとはもう会う機会がなさそうだ、とも思う。

同窓会には行かないタイプだし、仲のいい友人はインターネットをやっているタイプだったから、自ずと「インターネットで繋がっていない=知っているけどそこまで仲が良くない人」になってしまった。
だから近況を知らないし、向こうも私のことは忘れているだろう。

心の中に座席が並べられている。
座席は様々にあって、それは実家の台所のテーブルに祖母と友達が座っている様子だったり、高校の教室だったりする。
そこにその人たちがいた気配はするけど、もういない。
今はどこかに行ってしまって、席だけが残っている。そんな風景。

身近な人ではなく、知らない人たちの不在にも同じことを思う。
大好きで何度も読み返したブログの管理人。またどこかで文章を書いているならぜひ読みたいと思う人が何人かいる。でも叶わない。その人たちの知り合いでも友達でもない私は、キャッシュを眺めるしかない。
その人たちのことを何も知らないのに、やっぱりなんとなく座席がある。
その人たちが書いていた喫茶店とかご飯屋さんの椅子で、自分のテーブルの横にいたりする。その気配だけが心に残っている。