ネコミミにひかりあれ

エッセイを書いています。

りっすん、何者、認知の歪み

「りっすん」好きなんだけど、ゴリッゴリに頑張り続けた人が肩の力を抜きました、という記事が多くて、自分のように何も頑張ってない人がいい感じに暮らすにはどうしたらいいのか教えてほしい、と思ってるんだけど、ふとこの「何も頑張ってない」は認知の歪みなんだろうなと思い始めている

こういうことをtwitterに書いた。

りっすんは好きでよく読んでいるウェブメディアだ。
「わたしがやめたこと」という連載もまあまあ好きなんだけど、ふと(あれ、読んでて苦しいかもしれない)と思うことが増えた。理由は単純で、自分が頑張っていないように受け取れるからだ。
ここに出てくる人たちは多かれ少なかれ「何かを成し遂げた」一角の人たちである。
なにか肩書きや自分を語る言葉を持ち、そこに至るまでに苦しんだけど今はこれを辞めたから平常心で過ごしています、みたいな結論に落ち着いていく。ように読める。
それに比べて私はどうだろう。何も成し遂げていないのに、ずっとサボってばかりいる。何事も休んでばかりいる。

さて、私の認知はここまで歪みきっている。
最近ようやく自分の認知が壊れていて、歪んでいて、どうしようもないことを自覚したのでカウンセリングを一度受けてみた。並行して、「いやな気分よ、さようなら」を読んでみることにした。

本を読むたびに「そうだ、そうなのだ」と思うことの連続で、メモをずっと取っていたのだけど、中でも一番響いたのはここだった。

「どうして自分がやったことを、自分で誉めなきゃならないんですか?家族や友人、仕事仲間がもっと誉めてくれるべきなんだ。」ここに、問題があるんです。第一に、あなた自身が自分を認めてやらなければ同じ罪を犯しているのですよ。誰かがあなたをほめたとしても、あなた自身が言われたことを信じなければ何にもなりません。どれだけたくさんの本物の賛辞に、耳を塞いできたのでしょう。(p.108-109 第五章 虚無主義)

これをずっと、生きている間じゅうやっている。誰かが褒めて欲しい、とずっと思ってきた。
実際には褒められてもそれを自分の中にいるすっごい批判的な自分が打ち消してしまうのだ。

一社目の頃、アルバイトの身なのに1on1をやってくれていた。
(いま思えばどんなにありがたかっただろう)
ただ、褒められることがこそばゆいし、自分の認知が歪んでいて「自分はちっとも働けていない」と思っていたから、なにを言われても「自分はそんなにやっていないです。みんなに比べたら全く」と返すばかりだった。
そんな私に当時の上長は「うーん」と少し考えて、多分このようなことを言った。

「(猫耳)さんがそう受け止めてもらってもいいけど、俺たちは(猫耳)さんの働きっぷりをこういうふうに評価しているから、というのは心に留めておいて」
「自分がこれしかやっていないということを、俺たちはここまでやってくれた、と見ていることは忘れないでほしい」

「りっすん」に戻ると、そういう頑張っている人たちの記事を読むと、自分の頑張ってなさが露わになるようで不愉快だったのだ。
誰かが頑張っていて何かを成し遂げている時、自分が何一つ頑張っていなくて何も成し遂げたことがないなんて、そんなことはないと冷静なら思えるのに。

最近は小さなことでも褒めようというのを手帳でやっている。
昔、服部みれいの本で読んだのだけど「良かったことを数える」というのに似ていると思う。ただその時は漠然とやっていたのが、今は理論だって…理論なのかな…わかるから、きちんとやってみようという心がある。

その習慣を破る簡単な方法があります。五章にでてきた、腕のカウンターを少なくとも二〜三週間つけることです。毎日、自分のよい点を、外からの報酬を受けたか受けないかにかかわらずカウントするようにします。(p.318)

こういうことなんだけど、もっともっと細かく自分を褒めてあげようと思う。
カウンセリングで、もともと30分の予定だったけど1時間に延長してくれた電話の向こうの人は「自己肯定のコツは、すべて肯定すること」と言っていた。

「りっすん」のそういう記事になんともない気持ちになったら、たぶん、歪みが少しだけとれたんだと思えるだろう。