ネコミミにひかりあれ

エッセイを書いています。

透明人間の醜さ

何年か前、歌舞伎町のど真ん中にある火鍋の店に5人ぐらいのグループで行ったことがある。
道を歩くので、必然、3人-2人という風に前後に分かれて歩くことになり、私と友人の前に3人が並んだ。
当時私と雰囲気がよく似ていた友人(まったく違う姿をしているのに、よく間違えられた)と後ろを歩きながら、キャッチやらナンパ?やら、男たちに声をかけられまくる前方3名と、まるでいないかのように誰からも声をかけられない私たちで、微苦笑しながら店に向かった。
帰りも同じような感じだったのをよく覚えている。

たしかに「いた」けど、どこにも「いない」ことになっていた。

最近、ふと「顔・地位・能力のすべて(もしくはいずれか)がある女と遊ぶ男」の話を聞いて、火鍋に行く道のことを思い出した。
その男性は(男性も)顔・地位・能力のすべてがあるので、自分と釣り合いが取れる女を選んで声をかけて遊んでいるのだろう。
そういう話を聞いたときに、いい年こいて遊んでるのか〜と思うより先に「自分はその人に選ばれない/視界に入らないから、苦しい」と思ってしまうのが嫌だった。
自分には愛してくれるパートナーがいるのに、なぜこうも他人からの評価を求めてしまうんだろう。
(たぶんたくさんの人にちやほやされたほうがいいから?みたいな価値観があるのだ、、)

男の人に、そのように顔や外見で「女」として扱われるのが嫌だった、という話をよく見聞きする。
実際能力がきちんとある人たちがそのように「◯◯ちゃん」という女の子として扱われるのは良くないと思うし、大人ならちゃんと扱うべきだと思っていて。
それとは別に、もしくは延長線に、私はそのように「女」として扱われないのだな、と思う頭がある。
能力も地位もないので当然なのかもしれない。その辺りのモブとして扱われればいい方で、基本的には誰の視界にも入らないのだった。

たまにそういう話を、女というだけで劣っているとされている人の話を聞いて苦しくなるのはそういうことだ。
まだ視界に入っているだけいいじゃん、こっちは視認すらされないじゃん、と思ってしまって、自分はなんて醜いんだろうと自分に失望する。
(こういうの、歳を取ればどうにかなると思っていたけど、二十歳ぐらいの頃より弱まっただけで、依然そのよくわからない感情が残り続けている)