ネコミミにひかりあれ

エッセイを書いています。

行き止まりとブギーバック

「終わりが近いから始まりのことを考えている」みたいな語をたまに思い出すのだけど、終わりが近いというか、結末が既に見えているから必死で冒頭を読み返している感覚がある。
自分は日記を書くのが好きで、他人の日記を読むのも好きだけど、それはいつも過去を読めるからなのかもしれない。未来に向かう目線がないというか。

翻って、自分の家には祖母がいた。
長男坊を婿養子にやることを快諾してくれた父方の両親のおかげもあって、母方の家が家族の家になった。母方の祖父が亡くなったときのことを覚えていないけど、祖母のことはずっと覚えている。
味の濃い唐揚げ、パンの耳を揚げてグラニュー糖をかけたもの、一緒に行った祖母の実家、ボケてしまってからのことも大体覚えている。
高校生〜大学生ぐらいの頃にはまだらボケというのか、夜になると正気をうしなうことが多くなって、帰りたいとか、そんなことをたくさん言うものだから手に追えなくて、夜は部屋に立てこもっていた。

ドアを開けられるのが嫌でドアを塞いでいた。

そういう時間が長く続いたせいなのか、己の未来を考えた時に穏やかな老後というイメージは一切なく、いつ私も母や祖母のようになるのだろう、と塞いでしまう。
遠い未来は明るいものではなく、仄暗く塞がっている。
でもそれは私が昔介護を目の当たりにしたからではなく、時代性のような気もする。

小沢健二のブギーバックに関するツイートを読んで、はっきりと(うわ、)と思った。
でもあれは確か「ひふみよ」の渋谷公演の時だったと思うけど、あの時確かに救いであった。
あの時、NHK近くのモスバーガーで「食べるラー油ハンバーガー」を食べながらなんともなしに受け取った母からのメールには、私と父宛に「やっと特養に入れることになりました。これからは家族を立て直していきましょう」と書いてあって、母の誕生日にそれが決まったことがなにかマジカルな雰囲気があった。

行き止まりの未来を思う時に小沢健二を思い出すのはそういう妙な関連がある。