ネコミミにひかりあれ

エッセイを書いています。

インプットがないからアウトプットもない

 大昔働いていた会社だったか、大昔読んだ本だったか。いや、当たり前のことなのかもしれない。「アウトプットのためには、インプットが大事です」というようなことを、からからに乾いてから思い出す。そうだ、今の私にはインプットが足りないんだ。

 この一週間か二週間ぐらい、ずっと働いていた。朝早い時間から、当社比で夜遅い時間まで。結構働き詰めで、久しぶりに残業時間が「ふーん」というぐらいには、ついた。9月はそのようにして過ぎてしまったけど、10月に入っていきなり暇になった、ということもない。なんとなくゆるやかな「忙しなさ」のなかにいて、それは心を亡くすと書く。せわしないのだ。すべてが。
 今日だって「マスカラの替えゴムとクイックルワイパーを買おう」なんて思ってたけど、気がついたらへとへとになっていた。考える力を毎日仕事で使い切ってしまって、自分に使える思考能力なんて残ってない感じがする。これっぽっちも。

 きちんと自分の糧になるものを得たい。本も読みたいし、勉強もしたい。それらは自分をよい方向に導いてくれる「よい習慣」そのものだ。本を読んでいるとイメージが広がる。日記をつけると自分と向き合える。手帳を開いて。そこに挿絵なんて書いちゃって。筋トレもしよう。スキンケアだって、いつも適当だけど今日はきちんと乳液を塗りこんで、まつ毛美容液をつけよう。ハンドクリームもボディクリームもつけちゃってさ。
 そういうのって、まるごと「ケア」だと思っていた。自分を慈しんで、良い方向に導く「インプット」でもあるんだ。

 翻って、いま。
 インプットがないから、アウトプットがない。何かを出そうとすると、何も入力がないからカラ回ってしまう感じ。雑誌を読んでいたって目が滑ってしまうし、風呂に入っても落ち着かない。本を開いても3秒ともたない。あっ、これは。インプットができない何週間、はたまた何ヶ月かの間に、私の入力回路がすっかり錆びついてしまっている。だから、何を見ても、何をしていても、今二つ感動が鈍いのかもしれない。着たいと思った服とか、やりたい服装が浮かばないのかもしれない。筋トレをやる気力も失せて、料理だってどうでもいいのかも。
 それは私のせいじゃなくて、インプットする入力のところが錆びてたり、埃が溜まってたりするからなんだ。まあ、大丈夫でしょう。

 そういうことをブログに書いておきたくて、風呂上がりにシートマスクをつけたまま書いている。
 ちょっとしっくりこない気がする。自分の中にあるものを無理やり使ってアウトプットを出している気がする。インプットが大事なんだ。でも、今書いておかないとこの焦燥感を忘れてしまいそうなんだ。難しいな、優れた文筆家がたくさん本を読んでいると思っているから、私はいま読書が足りない。

 あとね、何で読んだり見たりしたのか忘れたけど「ラーメンが好きな人は一日三杯ラーメンを食べる。ファッションが好きと言い張るためにはたくさん服を買わないと」みたいなのを何かで見て、それもずっと覚えている。優れた文筆家が本をたくさん読んでいると信じている私に、もう一個信じる話ができた。それだけの話なんだけど。だから、圧倒的に、服と本の入力が足りないって、そういう話なんだけどね。