ネコミミにひかりあれ

エッセイを書いています。

推しがいないオタクになったわたしのための

推しがいない。

なんだかみんなが熱烈にtwitterとかブログで書き綴るような、誰か/対象に対する"熱"が、私にはないな、と先日アドベントカレンダーに参加して気が付いた。皆の文章が面白いのは、熱量が高いからだ。誰かが好きなものについて語るときのあの熱、輝き、きらきらしたもの、感情を表現するのに追いつかない語彙。言い表せない魅力。でも話したくなる力。そういうものが、皆の書く文章を、ツイートを、輝かせている。

翻って、私はそういうものがない。

まあまあ頑張ってやっていたFGOはこの間アンインストールした。引継ぎコードは残したのでまたふいにやるかもしれないけど、レベルを最大にするとか、そういう熱はなかった。
ツイステもこの間アンインストールした。イベントを頑張って走れなかったのが敗因だった。0か100かで考えてしまうので「このイベント今からやっても時間が足りないな、じゃあいいや」と引継ぎコードを発行してから消した。そういうゲームがたくさんある。

でも、私は昔の熱を知っている。

私の推しは今も昔も変わらず坂本龍一、と言っていいだろう。教授とあだ名されるその人だ。老け専枯れ専どこ吹く風、あのロマンスグレーがいいんじゃないの(ロマンスグレーついでに。私はムーンライダーズならかしぶち哲郎が好きです)。
熱はだいぶ冷めてしまったけれど。
今もYMOについては同世代より深く話せるし、坂本龍一についても然りだ。

でも、そういう、人に伝播させるような熱は、もうない。
誰かに話したいとか、分かち合いたいとか、もしくはそういうのがなくても自然と溢れてくるようなものは、もうない。輝く妄想も、いびつに読み替えたい現実も、ない。持っていないな、と思う。
私はもはやオタク「っぽい」だけで、オタクではない。二次創作をやる気力もなければ、絵だって描かなくなってしまった。小話も書かなくなった。

オタクではなくなって、推しという存在がいなくなっても、好きなものは好きだ、と思う。

先日、坂本龍一が配信でライブをやった。
いつものピアノのセットリストねはいはい分かったenergy flowと戦メリをやるだろうと斜に構えて見ていた。実際にその二曲はやったのだが、戦メリの前に「The Seed and The Sower」が演奏された。目を見開いてしまった。え、そこでこれをやるのか。「聞きなれた曲しかやらない」とは、どの口が言ったのか。その曲は。私が知る限りは「戦場のメリークリスマス」のサントラとそれを全編ピアノで弾き直したカセットブック「アヴェク・ピアノ」、そしてそれをCDにした「Coda」でしか聴けなかったのではなかったか。*1それが今。なーにが「聞きなれた曲しかやらない」だ。「aubade」だって演奏されたとき笑っちゃったんだぞこっちは。三ツ矢サイダーのCM曲として書かれた曲…!

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アヴェクピアノは持ってないけどCodaは持ってる方の人間だった

しかしそういう熱も、何かを語るようなところには向かない。
私には語る相手がいないし、twitterで孤独に呟き続けるのも限界があるからだ。

たまにキラキラと輝く「推しの話をするオタク」を見て胸がつぶれそうになる。そこまで人生賭けられていいな、と思う。輝きに目がくらむことはもうなくなってしまった。あらゆる光源があるのに、自分は何かにはまりこんでも「アウトプットをしないといけない」と思い込んでしまうらしい。だから、はまり込まなくなってしまった。
昔、絵を描いていた頃もそういう気持ちになった。なんとなく、自分の描く絵はあんまりうまくなくて、似た内容でもうまい人が描いたほうが閲覧数が伸びる、ということを知っていた。それで、そういう人の妄想のソースになるようにテープ起こしのようなものをコンテンツとして差し出すようになった。それはそれで求められていたものだったので楽しかったが、ふと「これ"も"、私でなくても大丈夫だ」と思ったのだ。
公式のレポートを見ればいい。SNS全盛の時代であれば、ハッシュタグを追えば事足りる。
だから、自分が評価されたいと思った瞬間にそれは対象への熱ではなかったのだとはっきり自覚したのだった。

そういうよく分からない感情を、たまにこうして供養する。

*1:よく見たらplaying the orchestaでもやってたから探したらもっとやってそう