ネコミミにひかりあれ

エッセイを書いています。

雨降りの隣人

弊社は建物のうちおよそ3分の1ぐらいのスペースを使用しており、
残りのスペースはおしゃれなモード系の洋服を扱う
(私でも一つ二つは取り扱いブランドを知っている)事務所が入居している。

自分の席からは窓の外が見えない。
目隠しを取ればよい話なのだけど、そうすると天気の良い日には丸焦げになりそうな構造だ。
天気も当然分からない。
そして、帰宅時には一刻も早く帰りたい。
目的の駅に停まる電車は10分か20分に一度しかこの駅には止まらず、
それを逃すと改札の中で無駄に時間を潰すことになる。

大都会を走る地下鉄は何社もつなぎ合わせたいびつな区間であり、
我が地元を走る私鉄と違って乗客を待ってはくれない。だから早く駅まで行かないといけない。
そう思いながらお隣さんの前を通り過ぎる。

全く顔なんて知らないし名前も知らないが、お隣の事務所は喫煙者が多いらしい。
よくこうして共有スペース(なんて大それたことは言えない階段の踊り場)で、
おしゃれな灰皿を持って煙草を吸っている。
そして、今夜すれ違った人も煙草を吸っていた。

「おつかれさまです」と私は言う。すると彼が「いつもご苦労さまです」と返す。
いつも、と言うほど私はその人に会っていないし、今日が初対面のはずだがそういう定型文なのだろう。
社会人は難しい。
愛想笑いで曖昧に返事をして階段を降りようとすると、後ろから「雨降ってますよ」と声がかかる。

「…え、うそ?!」
「降ってます」

見ず知らずの人に素っ頓狂な声で受けてしまったのが恥ずかしいのと、
一度帰ったのに忘れ物を取りに戻るのも恥ずかしくて、駆け足で自席まで戻る。
そのまま猛然と傘を手に取り、また張り付いたような愛想笑いでお隣さんに挨拶をした。
「ありがとうございます」と言った。

お隣さんは笑顔で煙草を吸っていたように見えた。
視界の端でわずかに写った顔は、苦笑いとも愛想笑いとも取れる笑顔であった。
それから、彼に会っていないけど、次に会う時も雨が降っているような気がする。