ネコミミにひかりあれ

エッセイを書いています。

日用をみつめる vol.05

長いこと書いていなかったけど日用を見つめたい。というか単純に買ったものの報告をしておく場所が必要だし、私は買い物のために生きている節があるのできちんと趣味を楽しもうと思って書いている。

チャントアチャームのクレンジングミルク

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確定申告を漸くやったのだけど、納税の義務が発生してつらい気持ちになったので購入した。
ちょうどクレンジング切れそうだったし、肌を労わるのもよかろう…と思って。ポイントメイクは資生堂の二層式のやつで落としているので洗浄力にはこだわらなくなってきた。

田中みな実監修のPJガードル

始めて履いてみた時にお尻があるべきところに収まった感覚があった。ガードルってこんな感覚になるものなんだ。

ダブルフラーレンUV

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楽天市場の公式ショップだと第一日曜日が半額になる謎の仕組み。3500円程度なら使ってみようかな、と思って買ってみた。送料を浮かせたくてシートマスクも買った。
フラーレンが何かよく分かっていない。
FinalAの記事で読んだけど、まあなんか良さそう、みたいな感じ。&beに似てるとどこかで見たけど、&beよりは伸びがいい印象。軽くて(SPF50じゃないしな…)、香りがなく、白浮きもしない。
これで本当に焼けないなら大したもんだな。

無印良品の手帳

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マンスリーとウィークリーがついた簡素な手帳。
そういえば去年も使っていて、今年は頑張ってフランクリンプランナー使うぞ!と思ったんだけどわりと1日1ページが続かなかった。土日ほぼ家にいないから手帳開かないし…。
でも、こぼれていく日々は記録しておきたくなった。
オンラインで、キーボードであふれる言葉を打つのは楽しいけど、右手のだるさを感じながら何事か書き付けるのも楽しい。日記だもんな。個人名とかガンガン書けるし。

そんな感じで日々散財をしているけど、今年こそはOL兼ライターとしてやっていきたいし、旧ロゴのセリーヌの鞄何か欲しい。というのをここに記録しておきます。
わたしには日用品としてブランドバッグが一つ二つぐらい寄り添っていて欲しい。わがままだけどさ。

行き止まりとブギーバック

「終わりが近いから始まりのことを考えている」みたいな語をたまに思い出すのだけど、終わりが近いというか、結末が既に見えているから必死で冒頭を読み返している感覚がある。
自分は日記を書くのが好きで、他人の日記を読むのも好きだけど、それはいつも過去を読めるからなのかもしれない。未来に向かう目線がないというか。

翻って、自分の家には祖母がいた。
長男坊を婿養子にやることを快諾してくれた父方の両親のおかげもあって、母方の家が家族の家になった。母方の祖父が亡くなったときのことを覚えていないけど、祖母のことはずっと覚えている。
味の濃い唐揚げ、パンの耳を揚げてグラニュー糖をかけたもの、一緒に行った祖母の実家、ボケてしまってからのことも大体覚えている。
高校生〜大学生ぐらいの頃にはまだらボケというのか、夜になると正気をうしなうことが多くなって、帰りたいとか、そんなことをたくさん言うものだから手に追えなくて、夜は部屋に立てこもっていた。

ドアを開けられるのが嫌でドアを塞いでいた。

そういう時間が長く続いたせいなのか、己の未来を考えた時に穏やかな老後というイメージは一切なく、いつ私も母や祖母のようになるのだろう、と塞いでしまう。
遠い未来は明るいものではなく、仄暗く塞がっている。
でもそれは私が昔介護を目の当たりにしたからではなく、時代性のような気もする。

小沢健二のブギーバックに関するツイートを読んで、はっきりと(うわ、)と思った。
でもあれは確か「ひふみよ」の渋谷公演の時だったと思うけど、あの時確かに救いであった。
あの時、NHK近くのモスバーガーで「食べるラー油ハンバーガー」を食べながらなんともなしに受け取った母からのメールには、私と父宛に「やっと特養に入れることになりました。これからは家族を立て直していきましょう」と書いてあって、母の誕生日にそれが決まったことがなにかマジカルな雰囲気があった。

行き止まりの未来を思う時に小沢健二を思い出すのはそういう妙な関連がある。

30歳になるまでに何も手に入れられなかった

「30歳までに欲しかったものを買いました!これです!」みたいなものを見るたびに私そういうの全くないし今後もないし30歳までに何も手に入れられなかった人生じゃん、と思っています、その類のものは酸っぱい葡萄すぎる…

みたいなことをTwitterに書こうとしてやめた。溢れんばかりの自意識過剰…。

YouTubeとかを眺めていると私よりもしっかりとしててオシャレでまともそうな編集者の方が「30歳になったお祝いに買いました」と今の私が相当無理をしないと買えないバッグとかをサラッと出している。
30歳になったお祝い!私何かしたっけ。
また別のところでは「30歳になるまでに欲しかったものを買いました」というような文脈で今の私が相当頑張らないと買えないバッグとかがサラッと出てくる。
30歳になるまでに欲しかったもの!

君は歌う 安心を買ったって
俺も欲しい 心から
(くるり「愛なき世界」)

ずっと安心が欲しい。買えるもんなら…。買えないのでこれは置いておいて、30歳になるまでにこれを買おう(そのために頑張ろう)とか、30歳になったからお祝いにこれを買おう(と思えるだけの稼ぎや体力がある)とか、とにかくキラキラして見える。

思えば自分への転職祝いに財布を買うぞ!と思っていたのにそれは後回しにしている。欲しい財布がなかったから、ぼろぼろの財布を使っている。
こういうのが良くない気がする。

そんなことを言っているのだがBGMをDIVA MEとKING DIVAにしているせいでなにも悲壮感がない。
30歳になるまでに〜/30歳のお祝いに〜/転職祝いに〜という三大散財チャンスを失った今、それらの欲望を酸っぱい葡萄にしないためにできること。それは、次のチャンスを作ることだ。
転職1年経ったから〜/厄年だから〜/生きてて素晴らしいので〜/昇格したから〜 あたりを次の散財チャンスとして、そこに定めたい。なにか物的なものを手に入れよう。

スノーガールにあこがれて

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スノーボードをやり始めて、6年目になる。
最初はガーラ湯沢のレンタルボードとジャケットで、初心者用のコースを大泣きしながら「降りて」いたのに、野沢温泉の中級者コースであればまあまあ「滑って」来られるようになった。

学生時代から、運動と無縁だった。唯一、長距離走だけは「やれば終わる」ということでマシという感じだった。技術が必要とされるスポーツは全てダメだった。
やっていて自分が下手だと思ってしまうと、もう出来ないしやりたくない、と止まってしまう。楽しさに辿り着けなかった。

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どうしてスノーボードをやっているのだろう。
付き合っている人間がスノーボードをやっているからだ。

恋人が声を枯らして教えてくれるのにできない自分が嫌で、何度も大泣きしては「なんでこんなことやってるんだろう」という気持ちになっていた。
貴重な休日をつぶして、こんなことをやって…SNSを見るとみんなオシャレして美味しそうなものを食べたりしている。
私はどうしてすっぴんで泣き喚いているんだろう…?

それでも1回で終わらなかったのは、恋人の献身に応えたい気持ちがあったのだと思う。

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こんなに教えてくれているのに、という気持ちがあった。
何回か行くうちにゲレンデでは立てるようになったし、ターンも出来るようになった。板を横ではなく縦にして滑れるようになると、自分がゲレンデで「避ける」側になっていた。

先日は会社で初対面の人とスノーボードの話をした。こんなこと、学生時代の私ではとても考えられなかったことだ。グラトリできませんよね、なんて盛り上がった。

北京五輪も競技については楽しく見た。もともとスポーツを見るのは好きだけど、スノーボードを始めてからは難しさが身に染みて分かるから、もっと楽しく見られるようになった。
BURTONの来期の板だ、なんて分かるようになって。
着られる服も増えた。いつもはモノクロが多いけど、スノーボードのときに着る服はビビッドな服がいい。
板もいつのまにか2枚に増えて、手伝ってもらいながらホットワックスを入れるようになっている。

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まだまだ行けないところや滑れない地形が多い。急斜面だって怖くて足がすくんでしまう。逆エッジを食うこともある。その度大げさに痛がってみるけど、スノーボードをやめようということにはならない。
なんでだろう。恋人と行くのが楽しいというのは大いにあるけれど、それ以上に「運動が苦手だった自分が運動をできるようになっている」というのが大きい。

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大人になっても「できること」は増やせるんだ、ということをスノーボードが教えてくれた。

今週のお題「冬のスポーツ」

タグをつける

昨日、ふと「あ、私って十何万円もする鞄って買わないのかもしれない」と思った。大昔、それこそ清水の舞台から飛び降りる覚悟で買った鞄は増税前だったのでぎりぎり一桁万円で買えたのだ。

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インターネットを眺めていると、高価な服をバンバン買っている人が視界に入る。ウワー、今期のそれ買ったんだ…すご…なんて思っているうちに嫉妬の芽がむくむく育ってくるのを感じる。
全身にトレンドのものやブランドのものが盛り盛りで、全てにタグがつけられるような。

あんまりみないようにする。
それ以外に方法がない。だってリアルの知人でもなんでもないのだから。

雑誌の中の人にそんな生々しい感情は抱かないので、やっぱりSNSとの付き合い方って難しいんだな。なんて、2008年ごろ?からTwitterをやっていて今更思う。

まあでも今号のVERY眺めてて自分へのご褒美は無理しない等身大!と50万円超えた鞄が掲載されてて流石VERYと思いましたが。

とはいえ、そういうものや体験を酸っぱい葡萄にしたくはない。だから、今年はなにか清水の舞台から飛び降りるような買い物を経験する予定だ。
なんだか高価な買い物をしている人を見るたび(いや、自分はプチプラで良いのだ)と思い直すことが、精神衛生によくない。一つ程度なら買えないことはないのだから。

それで、ふと感じた「自分の人生の頂点はここまでなのではないか、」という不安は払拭していきたい。ブランド物を買うことについて色々あれど、やっぱり高揚感があるから。

2022年1月に読んだ本

まあまあ雑に本を読んでしまっている。自分が好きなジャンルの人は読書家であることが多く、スマホで何事か喚くよりも生産的な時間を送っているようだ。恋人の家だって、そういえば本が多い気がする。憧れの人になるにはまずその人たちを真似ることから始めるべきだ。ブランドもののバッグはまだピンと来るものがないから保留するとして、とりあえず本をたくさん読もうと思う。

服部みれい「自分をたいせつにする本」

再読。服部みれい周辺に関しては、都会で田舎の暮らしをする、と頑張っていた?頃のほうが好きなのだけど、美濃に移ってからの暮らしも楽しそうなので健やかに生きてほしい。
元旦だし何か新年のことを考えるいい材料になるかな、と思って読んだ。「ワーク」として、こういうことをやってみませんか、みたいなスタンスで紹介してくれてるんだけど、

8. 毎日寝る前に、「ああ!すばらしい一日だった」といってから寝ます。たとえそう思わなくてもいいます。朝起きたら「すばらしい一日がはじまった!」といって起きます。
(p.150)

こういうのは魔法だな、と思う。呪文と何が違うんだろう。しかし自己啓発系の本だとよく出てくるし、コストがかからないので、思ってから眠るのはタダだと思い最近はいい一日だったな〜と納得してから眠るようにしている。
あと、もう似合わなくなってしまったりクールではなくなってしまった、思い出の服たちをどうしようと考えていた時に、こういう文章が目に入るとドギマギする。

さらにできれば、見てわくわくしないものは、いさぎよく処分します。「古い自分」を象徴していると思うものもいさぎよく処分します。
(p.157)

わかったわかった。明日ゴミ袋につめる。

石井好子「巴里の空の下オムレツのにおいは流れる」

ま〜〜〜食いしん坊だこと。その時代の人々にとって、このエッセイで紹介されている横文字の料理の味ってどう感じられたんだろう。今でこそコンビニでパスタもルーロー飯も食べられるけど、当時はそんなことなかったわけだし。
レシピが色々載っているので後で2、3作ろうと思って忘れている。パスタとかもまあ、普通に私が勘で作ったほうが美味しかろうと思う。だが、レタスの食べ方は文中の中のほうが美味しそうだった。
あと解説が堀江敏幸だったので、堀江敏幸の掌の上でごろごろと転がっている気持ちになったけど、私が期待していた「雪あかり日記 せせらぎ日記」のような感じの解説ではなかった。

恩蔵絢子「脳科学者の母が、認知症になる」

もうずっと落涙しながら読んだ本で、通勤電車で読んだために2度も涙目で出社するハメになった。
生まれてこのかた実家で暮らす「私」。核家族の「私」。母と仲がいい「私」。全部頭がいい、上位互換の「私」だ、と思いながら読んでしまう。

母にできないことが増えて、私が傷つくことがあるのは、私が母と自分をうまく切り離さずに、また、母と娘という役割にとらわれて、母という個人が見えていないからなのかもしれない。
(p.140)

引用しててもすこし泣けてきてしまう。何で読んだか忘れたけど、ヤングケアラーと呼ばれる子供たちは介護をすることで未来に希望を持ちづらくなる、みたいな話があった(気がする。妄想かもしれないけど…)。
自分はヤングケアラーではなかったが、衰退していく祖母を眺めていた。母がずっと世話をしていて、ある日施設に入居できたけど、それまでの日々のことが忘れられない。それからずっと、心の中の普段は開けない引き出しに祖母の塞がった未来のことがあって、だから自分の未来についても少しずつ閉塞感がある。
あの時家族はどうすればよかったのか。できればこの本がテレビに広く取り上げられると、私の両親のようにテレビを信頼できる情報源とみなす人々の心にも入っていってくれるんだけど。
記憶はうまく取り出せなくなっていくけど、感情は残っている、だから何かの出来事に遭遇したときの反応そのものがその人なのだ、みたいな、そういう話と理解した。

オーレ・トシュテンセン「あるノルウェーの大工の日記」

仲のいい職人とのたわいもない会話、ノルウェースウェーデンの違い、その他諸々。
あまり書き抜かずに読んだけど、自分の仕事に迷う時に読み返したらいいのかもしれない。実直な他人の仕事に触れるのは、なんだか気持ちがいい。

「利他」とは何か

多分「思いがけず利他」とか読んだほうがよかったのかもしれない。くたくたになって帰ってきたとき、駅の改札の中の小さな本屋で平積みしてあったから買ってみた。自分が普段手に取らない本を読むのがいいんじゃないか、と思って。逸脱するのが大事みたいな。
誰かに何かをやってあげる、みたいな話だと思って読んだら違って、全体的に「なにか巨大な力/歴史」みたいなもののなかで「ふとした力によって」自分がなにか行為すること、みたいな話だった。たぶん。
最後の小説家の方の話も「利他」というか、そういう、ふとした動きの話だったように思う。

安宅和人「イシューからはじめよ」

なんかずっっっと積みっぱなしにしていたので読んだ。もう何年も前に買った本だったはず…。なんとなくコンサル向けの人の本のような気がして、こういう本が必要で毎日読んでいるという人はどういう職業の人なんだろう。
私のような人間でも毎日本当に取り組むべき課題はありそうなものだけど、日々のタスクに忙殺されている。

グレッグ・マキューン「エフォートレス思考」

これ2冊目の本だったんだ。やられた。
割といい話が書いてあるんだけど例に出てくる話がえげつなくて苦しい気持ちになったりした。唐突に瞑想みたいなものが推奨されたりするけど、いい本だった。
ゴールを見据え、適切なステップを定義し、まず軽い気持ちでやってみる。やったときにミスっても失敗が安く済むよう設計しておく。このとき「楽をしていて申し訳ない」みたいな気持ちにはならないこと…。
私には「あいまいなゴール / 明確なイメージ」の図が刺さった。

石牟礼道子「魂の秘境から」

なんの気なしにどなたかが言及していたので買ってみた。文章がうますぎてびっくりした。
そして石牟礼道子についても何も予備知識がないまま読んだので読み進めるうちに水俣病とか闘争という単語が出てきてハッとする。

主治医の先生から、「三度の食事が優先、間食は控えめに」とクギを刺されている身である。(p.185)

こういう文章が出てくると、あれ、すごいお婆さんが書いている、と思う。
文中には平松洋子枝元なほみの名前も出てくるし、食べ物の周りのエッセイも読んでみたいと思う。買うだろう。
水俣病アニミズム的なもの(と言っていいんだろうか)よりも、そういう日常的なこと、熊本地震や自分の病気などについて書かれているもののほうが興味深く読めた。
読んでいるうちになんとなく祖母を思い出すのは良くない読み方だと思ったが…次も読むだろう。たまに自分を逸脱した本を読むと面白くていい。

現時点での今年の漢字、いまなら「動」かな

今年の漢字と言われて、全くピンとこない。いまが1月だからというわけではなく、ごく普通にその一年を象徴する一語、というのが浮かばないからだ。なので毎年あのようにして今年の漢字を書く方はすごいと思う。
いま思い浮かぶのは、その書道の風景だけだ。
お坊さんの目の前の紙は白紙で、私が書くなら、今だったら「動」だろう。

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年末から、私にしてはよく動いている。
ニセコに行って、野沢温泉にも2回行った。
幼馴染には「シーズンに何度も行くんだったら、それはもう趣味でしょ」と言われたことがある。
スノーボードは、私の趣味と言ってもいいのかもしれない。

動くといえば「少女終末旅行」だな、と思ってiTunes開いたら2017年とあって泡吹いて倒れるかと思った。
2017年。もう5年も前なのか…。OPもEDも好きでiTSで買ったんだけど、そういう心の動きって5年前なんだ。
思えば音楽方面の私は全く動いてなくて、あらゆるサブスクリプションに入っていないので新しい曲とかがもう全く分からない。

こういうのって堀江敏幸の「河岸忘日抄」みたいだ、と思ったけどあれはもっと上等な時の止め方だった。
私は怠惰から動けないでいるだけだ。
現時点での漢字を「動」と決めた後に動けないことを吐露するのはよく分からないけど、興味を同時に動かせないのだと思う。

高校生〜大学生時点の私の心の動きは、明らかに音楽に向かっていた。大学の単位を犠牲にしてでもライブの最前列が欲しかったし、暇さえあればスケジュールを見ていた。
社会人になる頃に、その興味が服に移った。バイト代〜働いて得たお金はほぼ服飾品と化粧品に消えていた。
そのあと、紆余曲折あってスノーボードを始めてから、冬の間は心がそちらに動くことになった。

そして今は運動か読書に心が向いている。
FEELCYCLEに入会したのは私の人生でもトップクラスによくわからない出来事だし(運動は嫌いなのに)、乱読だと思いながらここ数日で「中途半端に読み進めていた本」を読みきってしまった。
動き出すと止まらない。ポケモンの「ころがる」みたいだ。

ところで運動は「運を動かす」と書くから良いですね、とは誰かモデルのインスタグラムで見たような気がする。
今年本厄なので、厄祓いも行きたいけど、動くことを続けて運を動かしていきたい。
冬はスノーボードだけど、春になったらまたランニングをやるのもいい。そして本も読んでいきたい。

今年の終わりには一年中動いていたな、だから今年の漢字は「動」でいいだろう、と思えるように。

今週のお題「現時点での今年の漢字