ネコミミにひかりあれ

エッセイを書いています。

日用をみつめる vol.03

もうすっかり間が空いてしまったけど、また、日用をみつめたい。
「日用品」という語があるように、日用は「毎日使用すること/もの」を指す言葉だ。
日常はわたしが生きている限り終わらない。たまに起こる気分が高揚する買い物や体験は「ハレ」だけど、人生は「ケ」の連続だ。だから、そういうのをみつめたい。

ukaのケンザンを毎日使っている

f:id:necomimii:20210310225020j:plain
uka scalp brush kenzan | uka | トータルビューティーカンパニー uka
パナソニックの頭皮ケアの機械を使っていたこともあったけど、ukaのケンザンを買ってからはこちら一本。
充電切れがなく、シャンプー中も気兼ねなく使えるのがいい。防水と書いてあっても、怖いものは怖い。
その点こちらはシリコンだから、多少雑に扱ったところで壊れない。
上級者は両手に持って、こう、マッサージをするのだそうだ。
先日恋人に貸してあげたところ、自分も欲しいというので店に行ったら、2つ目を買い求めている人がいた。
たぶんあのひとは上級者。

青汁とプロテイン

f:id:necomimii:20210311080636j:plain
プロテイン「レビュー懺悔」のほうでも書いたけれど、とにかくテキーラ村上さんのUltoraを買っておけば間違いがない。まずい粉を1kgも買う間違いを犯したくないので、わたしはもうUltoraしか買っていない。
抹茶ラテを飲むときに限り、粉末の青汁を混ぜて飲んでいる。
f:id:necomimii:20210311080647j:plain
青汁といえば、伊藤園の青汁がおいしいとtwitterで話題になっていた。
半信半疑でペットボトルのものを飲んでみたら、本当に美味しくて、気付いたらほぼ毎日飲んでいる。
これによる健康面の影響はまだないけど、強いて言えば「味があるものを飲んでいるので、おやつへの欲求が薄くなった」だろうか。

リセットは神頼みで

f:id:necomimii:20210311080701j:plain
たまに全部嫌になってリセットしたくなる。
そういう時、昔のわたしなら床をカッターで切り裂くなどしていたが、そういう若さはもうない。
だから、こういう清涼感があるシャンプーなどに頼るようにしている。
アルジタルの「要らないものが取れる」シャンプーは、半信半疑。まさかWi-Fiの電波を取りたいとは思っていない。
頭皮にこれを塗ってukaのケンザンでマッサージをすると、頭がスッと軽くなる…気がする。
おいせさんのシャンプーとコンディショナーは、なんだかご利益がありそうだし、スッキリする匂いがする。
お風呂でなんとなく生まれ変わった気になって、また日々をやり過ごそう、という気持ち。

春は薄い色を付けたくなる

f:id:necomimii:20210311080715j:plain
吉川康雄さんの新しいプロダクトに期待しつつ、一重まぶたの人へ向けた化粧ページをよく眺めている。
www.elle.com
わたしはこのモデルの方と同様、前髪パッツンなので「もしかしたらアイライン要らないのかも…?」と、薄い色のみ付けて出かけることがある。
そういうときに、アンプリチュードのアイシャドウが今の気分。
お店に偶然入荷していた青色と、それに合わせるブルーブラックのマスカラ。
もう少しうまく使えるようになったらいいな。
春の薄い服たちにはこういう、まぶたが透けるような色がよく似合うだろう。

Notionを使ってみている

f:id:necomimii:20210311075940p:plain
ずっとScrapboxで読書記録やその他のメモを付けていたけど、Notionというサービスも便利らしいという話を聞いて、乗り換えてみている。不便だったらScrapboxに戻すつもりだけど、今の所はNotionで足りている気がする。
To Doリストを作る→Google Calendarに振り分ける、という感じで使っている。

たぶん「日用をみつめる」は、今後も隔週とか月1ぐらいで続いていきます。きっと。

2021年2月に読んだ本

2021年1月は割と本を読んだみたいだけど、2月はあまり読めなかった。
necomimii.hatenablog.com
でも4冊読んでいたので自分を誉めたい(1週間に4冊読むのが目標だったのでギリギリだけど)。
f:id:necomimii:20210301063013j:plain

服部みれい「あたらしい結婚日記」

あたらしい結婚日記

あたらしい結婚日記

服部みれいの日記が本当に好きなので、読む本に迷うとこれを選択してしまう。カバーを外して写真を撮っているのは、自分の手元にあるものがボロボロでみすぼらしいからです。そのぐらい雑に読み返しては、その時々のヒントをくれているような本。

「問題」は好機そのものなのである…There are no problems only opportunities.

日記シリーズ、この本から別冊の脚注が付いてくるようになり、本に出てきた単語について服部みれいがコメントしているんだけど、それがまたいい。
何回読んでもこの言葉にはまあまあハッとさせられる。自分の底を自覚するというか、今が底なのだから上がるだけだなと思ったりする。

福ちゃんは「服部みれい」は好きだね。でも、本名のほうのわたしはどうかな
(p.174 10月29日)

今回の再読で気に入ったのはここだ。
現在のパートナーの方と出会ったときの心の動きが(「結婚日記」だし、)かなり詳しく記録されているんだけど、浮かれながらも冷静なのが分かっていい。
本名のほうのわたし、というのになんだかぐっときて、読書メモに書き抜いていた。

増田薫「いつか中華屋でチャーハンを」

あ、電子版はオールカラーなんだ…。
いつか中華屋でチャーハンをの記事一覧 - イーアイデムの地元メディア「ジモコロ」
もともとウェブメディアで連載されていたものが一冊にまとまっていて、わたしは気に入った本は紙でもっておきたいタイプなので購入した。
これ確か凝った画材で描いているわけではないと増田薫が話していた気がするな…それに感銘を受けました。
私もたまにカラーのイラストと文章を描いたりするけど、漫画をフルカラーで描くのは大変だし、アナログだとスキャンとかもあるから「ウワ〜〜〜」となりがちなんだけど、このクオリティがいつも維持されていたのが本当にすごい。
私も野方ホープ行ってみたくなったよ。

ヤニス・バルファキス「父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話」

2月の読書量が増えなかった主な原因だと思われます。経済の話がとにかく苦手なのでこういうものから始めよう!と思ったんだけど、このレベルでも自分には「ウッ…」となることが多かった。
ただいいフレーズが多くて(翻訳の関美和という方がすごいんだろうか、原文のニュアンスが格好いいんだろうか、どっちもだろうけど)、

経済についての決定は、世の中の些細なことから重大なことまで、すべてに影響する。経済を学者にまかせるのは、中世の人が自分の命運を神学者や教会や異端審問官にまかせていたのと同じだ。つまり、最悪のやり方なのだ。(p.235)

こういう言葉とかにまた触れたいので、また読み返したい本になった。
ヤニス・バルファキスという方は調べると結構破天荒な感じで有名らしく、わたしはそのあたりも当然知らなかったので、いや〜〜〜無知…と恥ずかしくなりました。

福田康隆「ザ・モデル」

働いている業界で聖書のように扱われている本なんだけど、そういえば読んだことなかったな…と反省して読んだ。
目からウロコがボロッボロ落ちた。というか、自分が日々聞き流している「インサイドセールス」みたいな単語も、なんとなく発している「マーケティング」という単語も、こういう本を読んでから見てみるとだいぶ解像度が上がって自分に近くなる印象を受けた。
自分が無知すぎるのが原因なんだけど、なるほどこれはSaaSと呼ばれるところに関わるのであれば必携の書なんだろうな…と思いました。これも上の経済の本と同じく、折に触れて読み返したい感じ。

f:id:necomimii:20210301064854j:plain
私の率直な感想はこれですが…

とりあえず本をなんとなく毎月読み続ける、みたいなところは維持したいところ。
今月はとりあえず2月末から読み始めていたこれを読み終えたい。

ポケモンフォロワーと呼ばれる世界をいくつか冒険した話。

コピーにも思い出が宿る。
本物/偽物という話のなかで、偽物にも思い出やかけがえのないものが宿る/宿らないというあらすじは、おもに生命倫理の分野で見るように思う。姓を略した愛称で呼ばれるアクション俳優の代表作の一つに、そういった話がなかったか。おのれのクローンを見たことで生活が一変した主人公が、ラストシーンでおのれの出自に気付く物語。しかし主人公とそれまでの家族にはなにも隔たりはない。

話がかなり大げさになってしまったが、 いわゆる「パクリ」商品はどうだろう。
ポケットモンスターが世間を席巻していた頃、たくさんの「ポケモンフォロワー」と呼ばれるゲームが存在していた。フォロワーの定義は人によって自由だと思うが、個人的には下記のように考える。

  1. バージョンが二つ、ないしは三つ出されていること
  2. 主人公が直接戦わず、仲間のモンスターが戦うこと

全てを網羅しているわけではないが、私もコミックボンボンを読んでいた身だ。
ポケモンをやりながら、ポケモンに似たシステムの別のゲームをやっていた。わたしの名をつけられた主人公は同時に無数の世界に存在していて、モンスターを使役したり友達になったりしながら、世界の危機を救っていた。

  • 携帯電獣テレファング パワー/スピード
  • 携帯電獣テレファング2 パワー/スピード

いずれもコミックボンボンで同名の漫画が連載していた。ポケモンモンスターボールなら、こちらは携帯電話の番号だ。モンスターボールで捕獲する代わりに、携帯電話の番号を聞くのだ。番号交換に応じてくれれば晴れて仲間になれるというものだった。スマートフォンガラケーと呼ばれる携帯電話だった頃、子供にはまだ過ぎたおもちゃだった。だから、こういうゲームが生まれたのだと思う。
ゲームボーイカラーで発売された1にはガラケーのアンテナを模したおもちゃがついており、友達の電獣から着信があるとピカピカ光るというギミックがあった。ここまで書いていて思い出したが、ゲームボーイアドバンスで発売された2にもアンテナのおもちゃが付いていたような気がする。
もうあまり覚えていないが、ポケモンでは出来なかった「十字キーによる斜め移動」ができた。
わたしは「スピード」バージョンを遊んでいたが、まわりに「パワー」をやっている友人はおらず、というかテレファング自体を知っている友人がおらず、図鑑は当然埋まらなかった。

これをポケモンのフォロワーに加えるのは少し抵抗があるけど、複数バージョン出たし、モンスターが戦うのでこちらに入れた。デビチルという名前で土曜日の朝にアニメを放送していたし、コミックボンボンで連載もしていた。モンスターボールで捕獲する代わりにデビルと「交渉」を行うというシステムが幼心に新鮮だった。交渉に失敗すると怒らせたり、逃げられたりする。成功しても仲間になってくれるわけではなく、お金をもらえたりHPを回復してくれることがあった。
とあるサイトで「児童誌のベルセルク」と呼ばれていたことを思い出す。コミックボンボンでのコミカライズが異様に暗かったのだ。後年「完全版」が出たときは購入した。藤異英明によるダークな世界観、回復しない仲間、バンバン死んでいく登場人物たち。ゲームはそこまでではなく、簡単なポケモンという印象が強い。赤の書~白の書まではおそらく地続きで、そのあとの光の書からは別の世界観だけど、赤の書のほうが好きだった。
だから光の書・闇の書のあとに出た、炎の書・氷の書は記憶が曖昧だ。デビライザーと呼ばれる召喚銃のデザインも、赤の書のほうが好きだったから。主人公の性別も選べなくなってしまったし。

  • もんすたあ☆レース2

何故かやっていた、もんレー。友達がやっていたので買った覚えがある。
2バージョン発売されていないので、厳密にはポケモンのフォロワーではない気がするが、いや、でも、ここに入れてしまっていいだろう。1をやっていないけど、2が出る程度に人気があったのだろう。そして、その理由がなんとなく分かるような気がする。
今思い出しても平和で面白いゲームだった。モンスターを戦わせないでレースをさせる、どこかほのぼのとした絵面。
私は馬のモンスターの最終進化したものにワープを覚えさせて、かつ特技袋を持たせてワープ二回できるようにしていた(分かる人にしか分からない話題)。こうすることで、苦手な地形をほぼやり過ごすことができたのだ。

テリーのワンダーランドはやっていないんだけど、こっちはやっていた。自分がまともにプレイした、たぶん最初で最後のドラクエ。ルカとイルという2バージョン発売されていて、女主人公でやりたかったのでイルを買ったのだ。
ポケモンより難しかったので、どこかのダンジョンで詰まってそのままになっている気がする。ソードドラゴンとアンドレアル?がいた気がする。

f:id:necomimii:20210224231144p:plain:w700
ポケモンとデビチルを買い与えられている様子

だいたい全部のゲームを思い出せるけど、きちんとエンディングを見たのはデビチルぐらいかもしれない。赤の書は本当にハマりこんでいて、ディープホールも最下層近くまで行った覚えがある。デビチルはアニメ化までされたし、真・女神転生の名前を冠しているからきちんと作っていたのかもしれないけど。

あの頃放り投げてしまったゲームが山ほどある。
わたしはいつも主人公の名前を自分の名前にしていたから、無数の、行き詰まった主人公の「わたし」がいる。もう思い出せないけど、ポケモンでジムを回って四天王を倒したことも、パートナーのデビルと一緒にマカイを救ったことも、ベリーベストカップを制したことも、わたしのベースになっているに違いない。わたしは数多の世界を救ったのだ。ポケモンがなければ生まれなかったゲームの世界で。

中学受験と苺のガレット

この時期になると思い出すのは、私立の中学校を受験した時のことだ。
そして、何故かその思い出にはデニーズの苺のガレットがくっついている。受験を思い出せばガレットを、ガレットを見ると受験を、という具合に結びついているのだ。

幼馴染が中学受験をするというのに影響されて「私も受験する」と言ったのは、たしか小学4年生の頃だった。良くも悪くもなかった私の頭は、どうにか中流ぐらいの学校に受かりそうだ、というところまで来た。
しかし、何かのきっかけで5年生の頃にいきなり「受験をやめる」と言い出したらしい。浮いたお金で我が家は沖縄旅行へ行ったのだが、6年生になるとまた「受験したい」と言い出して、私は知らなかったが両親は大変だったらしい。
一度やめた受験をどうしてまた、と思い返せば「地元の中学校に行くのが嫌」という理由だった。当時の私は精神的にむずかしい時期であり、クラスメイトとうまくやれなくなっていた。結局、塾はそれまで行っていた中学受験に強いところではなく、地元の小さな個人指導の塾になった。

私のクラスで中学受験をするのは、おおよそ半分ぐらいだったという。
そして、なぜか「受験は良くないもの」という雰囲気があった。なんとなく友達にも言い出せず、受験するの?と訊かれても曖昧に笑ってすごしていた。もしも受験することが周囲に露見し、かつ落ちてしまったら「受験に落ちたやつ」として扱われるだろう。そんな人間たちと一緒に地元の中学校に行かなければならない。
第一志望の受験日は日曜日だったので、ここで受かってしまえば誰にもバレない。受験のために欠席する子どもがいる中で、何食わぬ顔をして通学するのだ。なんとしても、初日にすべてを決めねばならなかった。

迎えた受験日。車で中学校へ向かう。
4科目を受け終わる頃には疲れ切っており、帰り道に何か食べようという話になった。来るまでの道にたくさん飲食店はあったが、デニーズにしよう、と車を停めた。
注文した料理が運ばれてくるまでの間に、自己採点が始まる。学校から配布された問題に、覚えている限りの答えをメモしていく。答えが曖昧なところは自信がないとしながらも、あまり未来は明るくなさそうだった。

ところで、いつまで経っても頼んだものが出てこない。
苺のガレットとは、そんなに時間がかかる食べ物なのだろうか?大変お待たせしました、と店員が言ったか定かではないが、ガレットは裏が真っ黒に焦げていた。おおかた忘れていたのだろう。食べながら、ぼんやりと「この先どうなってしまうのだろう」と暗澹たる気持ちになっていた、ような気がする。

真っ暗な夜だった。
合否は電報で届くという。そのうちにチャイムが鳴った。
届いた報せを、家族の誰も開けられなかった。虫を素手で握りつぶせる、昭和1桁生まれの祖母でさえ嫌がった。母はもちろん拒否した。
結局、父が皆に背を向けて開封することになった。

一言、父は「受かってる」とつぶやいた。
それから「学費振り込めだとよ」と苦笑いした。

f:id:necomimii:20210211221944j:plain
苺のガレットの写真がなかったのでどこかの修学旅行で買った木刀を貼っておく

2021年1月に読んだ本

f:id:necomimii:20210211163701j:plain

今年は「1週間に1冊は本を読もう」と決めた。
憧れる人たちは読書家で、やっぱりよいアウトプットはよいインプットからだな、と改めて思ったからだ(これは私が一社目に働いた会社に起因する)。
自分で読んでメモを取るだけでも楽しい。だが味気ない。
だから、今年は1ヶ月に読んだ本をここで振り返っていきたい。

服部みれい「あたらしい移住日記」

あたらしい移住日記

あたらしい移住日記

2021年が始まって、最初に何を読もう?と思った時、服部みれいの日記を読もうと思った。この「移住日記」までに二冊(「あたらしい東京日記」「あたらしい結婚日記」)出ていて、この「あたらしい移住日記」が三冊目。

雑誌の編集者が東京で暮らし、結婚し、そして岐阜に居を移す、という人生の様々なイベントが軽い文体で書かれているので読みやすい。そしてちょっとスピリチュアルなのもいい。
私はわりとスピリチュアルなものが好きで、断言法とか掃除で開運、みたいなものであれば悪影響ないのでやっていけばいいと思っているタイプです。彼女の日常に散りばめられる「スペースクリアリング」とか「白湯」、「呼吸法」みたいなものは試してしまう。さすがにOリングとかはまだやっていませんが。

心理的安全性のつくりかた

話題だったので読んだ。読んだら、あまりにも今の勤め先と剥離していて落涙しそうになった。
部内で目安箱のような活動をしていた同僚氏(チームも部署も違うが会えば一言二言話す)が転職したあと、ふと「彼がうちの部署でやろうとしていたことは、この本に書いてあることで、心理的安全性をどうにか確保しようとしていたのだな」と腑に落ちた。
様々なワークが挙げられていて、それをやろうとメモはしているのだが、やっていない。きっとやらないまま本を手放すだろう。

堀江敏幸「おぱらばん」

おぱらばん (新潮文庫)

おぱらばん (新潮文庫)

これも再読。年始なのでなんとなく「自分が知っている文章に触れて、安心したい」と思ったのだろう。堀江敏幸のエッセイなのか小説なのかよく分からない文章が心地よい。収められた小説すべて氏の体験をもとにした小説なのか、エッセイなのか、曖昧だ。固有名詞が書籍などの名前以外にはほぼ出てこない。
私はここに収録された「黄色い部屋の謎」を読んでjoseph rouletabilleと名乗っていたことがあったし(訳が格好いいからだ)、エミール・アジャールの小説「ソロモン王の苦悩」も図書館で借りて読んだ。
そしてそのように自分の体験と書籍などを結び付けることを、堀江敏幸は「私にはそんなぐあいに、書物の中身と実生活の敷居がとつぜん消え失せて相互に浸透し、紙の上で生起した出来事と平板な日常がすっと入れ替わることがしばしばある。」と書いている。こういう文章が素敵だと思う。

平野啓一郎「私とは何か」

私には昼間の仕事(A)のほかに「別件」と読んでいる、平たく言えば副業が二つあり(B,C)、もう一つ行きたかった会社の業務委託を受けている(D)。Bで壮絶なミスをしたためAもCもDもすべて立ち行かなくなり、プライベートの私もいきなりパニックになって泣いてしまう、ということが先日あった。
「分人」という概念を知っていたけど、このありさまだ。
Aの私と、プライベートの、恋人と過ごしている時の私は違う私だ。
「たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。」
まえがきでこう書いてもらって、安堵したのに。まだ、「分人」の概念があまり自分に浸透していない。折に触れて再読して、嫌な自分を生きているときも安心したい。それは休日の私とは切り離されているのだから。

北原孝彦「ズボラPDCA

インターネットでよく見ている方が読んでいたので、取り寄せて読んだ。
PDCAを回しましょう、その前にとにかく考えましょう、みたいな本なので仕事術として使うならあまり役に立ちそうな感じはしない。そもそもPの立て方をあまり説明してくれないのだが、筆者の心配性には共感した。心配性というか、臆病さか。
経営している会社の従業員から連絡があるとドキッとする、お客さんが怒っているのか、それとも従業員が辞めてしまうのか…と思う、みたいなことを言っていて”人間味”を感じた。私もいつも誰かからの連絡には怯えている。

イ・ラン「私が30代になった」

私が30代になった

私が30代になった

  • 作者:イ・ラン
  • 発売日: 2019/05/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
先日、下北沢の古書ビビビに行った時に目に入ったので買ってみた。1ページ1枚のイラスト本だと知っていたら買っていただろうか…いや、買ったか。だるい時にさらっと読める。タイトルが刺さったのだ。私も12月に30代になったばかりだから。

成毛眞「バズる書き方」

私は自分の書いたものを誰かに読んで欲しいし、できれば「いいね」が欲しい方の、俗な人種なのだと自覚している。それなのに、レジに持っていく時の恥ずかしいこと。
あんまり参考にはならなかったが(たとえば「w」の使い方について書いてあったりする。新書だからな~と思って忘れることにした)、新書はこういう話題の本が出ているのか、と思った。
なぜか新書に苦手意識があり、あまり読まないで生きてきたのだが、たまには読んでみようと思う。

三宅香帆「バズる文章教室」

上の本と一緒に購入したけど、こちらは夢中で読んだ。
「はじめに」の中で私が思っていることがすべてフォローされていたからだ。つまり「フォロワーも特別なネタもないけど、誰かに私の文章を読んでもらって、いいなと思ってもらって、できれば広めてほしい」みたいなことが書いてあって、そうそう、これだ!と笑顔になった。
文章の書き方について思いを馳せると、文章の味わい方を考えることになる。読んでいてそれが面白い発見だった。美味しい料理を作るなら、美味しいと思う味を知らなくてはいけない。それと同じことが、文章で起こっているだけなのだ。

コーヒーと圧倒的自己肯定感

f:id:necomimii:20210211163312p:plain

毎朝コーヒーを買う習慣がついたのは、会社が入居しているビルの地下にセブンイレブンが入ったからだ。
皆がコーヒー片手にエレベーターに乗り込むようになったので、真似してみたところ、意外と心地よかった。
今のところ、セブンイレブン以外のコンビニでコーヒーを買ったことはない。近くにファミリーマートやローソンがあるというのに。会社の真下という理由以外に何か理由があるとすれば、それはコーヒーマシンである。

セブンイレブンのコーヒーマシンは、佐藤可士和がデザインしている。「分かりづらい」とテプラまみれになった哀れな筐体の画像を見たことがある。しかし私が惹かれるのは筐体ではなく、モニターに表示されるメッセージだ。
最初のゲームボーイのようなモノクロの画面に「ドリップしています」など、進捗を知らせる言葉と簡単な図柄が表示される。それをぼんやり眺めていると、ピピッと完成を知らせる電子音が鳴る。

「おいしいコーヒーが出来上がりました」

メッセージが表示された瞬間、私は衝撃を受けた。
このコーヒーは、生まれた瞬間から「おいしい」ことが決まっている。
圧倒的な自己肯定感。思わず写真を撮ってしまった。
表示される言葉は、単純に「コーヒーが出来上がりました」でもよかったはずだ。そこに「おいしい」と付け足したセブンイレブンの、すさまじい自信。

あたたかいコーヒーを片手に持ってエスカレーターを登りながら、ふと腑に落ちた。
自信は持っていたほうがいい。
思えば、食品はいつも自信満々だ。「おいしい」牛乳。ミミまで「おいしい」食パン。皆、自分のおいしさを自認し、誇りと自信を持っている。
私の場合は何だろう。文章が「書ける」人間、だろうか。

世の中には断言してしまった方がいいことが、きっとたくさんある。
セブンイレブンのコーヒーはその最たる例だ。どうせ飲むのなら「おいしい」コーヒーの方がいいに決まっている。
圧倒的な自信と自己肯定を見るために、またセブンイレブンに寄る朝が来る。

推しがいないオタクになったわたしのための

推しがいない。

なんだかみんなが熱烈にtwitterとかブログで書き綴るような、誰か/対象に対する"熱"が、私にはないな、と先日アドベントカレンダーに参加して気が付いた。皆の文章が面白いのは、熱量が高いからだ。誰かが好きなものについて語るときのあの熱、輝き、きらきらしたもの、感情を表現するのに追いつかない語彙。言い表せない魅力。でも話したくなる力。そういうものが、皆の書く文章を、ツイートを、輝かせている。

翻って、私はそういうものがない。

まあまあ頑張ってやっていたFGOはこの間アンインストールした。引継ぎコードは残したのでまたふいにやるかもしれないけど、レベルを最大にするとか、そういう熱はなかった。
ツイステもこの間アンインストールした。イベントを頑張って走れなかったのが敗因だった。0か100かで考えてしまうので「このイベント今からやっても時間が足りないな、じゃあいいや」と引継ぎコードを発行してから消した。そういうゲームがたくさんある。

でも、私は昔の熱を知っている。

私の推しは今も昔も変わらず坂本龍一、と言っていいだろう。教授とあだ名されるその人だ。老け専枯れ専どこ吹く風、あのロマンスグレーがいいんじゃないの(ロマンスグレーついでに。私はムーンライダーズならかしぶち哲郎が好きです)。
熱はだいぶ冷めてしまったけれど。
今もYMOについては同世代より深く話せるし、坂本龍一についても然りだ。

でも、そういう、人に伝播させるような熱は、もうない。
誰かに話したいとか、分かち合いたいとか、もしくはそういうのがなくても自然と溢れてくるようなものは、もうない。輝く妄想も、いびつに読み替えたい現実も、ない。持っていないな、と思う。
私はもはやオタク「っぽい」だけで、オタクではない。二次創作をやる気力もなければ、絵だって描かなくなってしまった。小話も書かなくなった。

オタクではなくなって、推しという存在がいなくなっても、好きなものは好きだ、と思う。

先日、坂本龍一が配信でライブをやった。
いつものピアノのセットリストねはいはい分かったenergy flowと戦メリをやるだろうと斜に構えて見ていた。実際にその二曲はやったのだが、戦メリの前に「The Seed and The Sower」が演奏された。目を見開いてしまった。え、そこでこれをやるのか。「聞きなれた曲しかやらない」とは、どの口が言ったのか。その曲は。私が知る限りは「戦場のメリークリスマス」のサントラとそれを全編ピアノで弾き直したカセットブック「アヴェク・ピアノ」、そしてそれをCDにした「Coda」でしか聴けなかったのではなかったか。*1それが今。なーにが「聞きなれた曲しかやらない」だ。「aubade」だって演奏されたとき笑っちゃったんだぞこっちは。三ツ矢サイダーのCM曲として書かれた曲…!

f:id:necomimii:20201214221805p:plain
アヴェクピアノは持ってないけどCodaは持ってる方の人間だった

しかしそういう熱も、何かを語るようなところには向かない。
私には語る相手がいないし、twitterで孤独に呟き続けるのも限界があるからだ。

たまにキラキラと輝く「推しの話をするオタク」を見て胸がつぶれそうになる。そこまで人生賭けられていいな、と思う。輝きに目がくらむことはもうなくなってしまった。あらゆる光源があるのに、自分は何かにはまりこんでも「アウトプットをしないといけない」と思い込んでしまうらしい。だから、はまり込まなくなってしまった。
昔、絵を描いていた頃もそういう気持ちになった。なんとなく、自分の描く絵はあんまりうまくなくて、似た内容でもうまい人が描いたほうが閲覧数が伸びる、ということを知っていた。それで、そういう人の妄想のソースになるようにテープ起こしのようなものをコンテンツとして差し出すようになった。それはそれで求められていたものだったので楽しかったが、ふと「これ"も"、私でなくても大丈夫だ」と思ったのだ。
公式のレポートを見ればいい。SNS全盛の時代であれば、ハッシュタグを追えば事足りる。
だから、自分が評価されたいと思った瞬間にそれは対象への熱ではなかったのだとはっきり自覚したのだった。

そういうよく分からない感情を、たまにこうして供養する。

*1:よく見たらplaying the orchestaでもやってたから探したらもっとやってそう