ネコミミにひかりあれ

エッセイを書いています。

HASのライブから10年経った話


あの日から10年も経つの

2007年、私はまだ高校一年生だった。
その年の3月にあったサディスティック・ミカ・バンドの再結成ライブには行きたかったけど、期末試験とだだかぶりしており、泣く泣く行くのを諦めた。程なくして「YMOが横浜でライブをやるらしい」という話が飛び込んできた。電車でそのニュースを見た時、飛び跳ねそうになったのを覚えている。実際に尻は3cmほど浮いたかもしれない。誰かに言いたかった。誰に?
「これは、なんとしてでも行かないといけない」と。

その時点で既に付き合いが10年ぐらいになっていた親友に声をかけた。まだまだ未成年で子供だった私達は、ライブに一人で行くことを許されていなかったからだ。「お互いがお互いの興味のあることに誘い合うこと」というのは多分彼女が言い出したことだと思うけど、素晴らしいことだった。おかげで、私はポルノグラフィティの「Century Lovers」が大好きになったから(アンコールは「ジレンマ」じゃなくてセンラバ派だった)。
同行者は得た。横浜までは遠いから、帰り道に迎えに行くよ、という話にもなった。この迎えも、我が家と親友の家が交互に行っていた。塾の送り迎えと同じような感覚だったと思う。
今回は親友の家の車が迎えに来てくれることになった。
問題はチケットだ。

チケットはチャリティライブだったそうで、破格の値段だった。坂本龍一の銀座ヤマハホールがイープラスの手数料を含めて1万円を超えたときに「外タレかよ」と毒づいた覚えがあるが、そのクラスの人々3人が集まって、確か4000円しなかった。当然のように争奪戦になったけど、なんとか2枚分確保できた。
今思えばすごいことだけど、12列めを確保できていた。

5月19日。パシフィコ横浜
どういう風に横浜まで行ったのか、もう覚えていない。
当日撮ったプリクラは手帳に貼ったから、今でも見ることが出来る。垢抜けない黒縁の眼鏡で、イケてない服装で、でも精一杯おしゃれしたんだなあという私。覚えたてでおぼつかない化粧もしていたと思う。
物販はTシャツしかなかったので、それを買った。同時期によく行っていたポルノグラフィティのライブと比べれば貧弱な物販だったし、パンフレットやステッカーが欲しかったが、グッズが買えたという事実だけで嬉しかった。

一番最初に披露されたのは「以心電信」だった。
もうそこで血が沸騰するかと思った。それぐらいに飢えていた。
自分の眼前で、いま、ライブが行われている、という事実に頭がくらくらした。
あとで、隣で見ていた親友には「Riot In Lagos」「音楽」と続いたときに固まってたもんね、と言われたように思う。固まっていましたか。無理もない。
坂本龍一のキャリアを振り返ったとき、私は曲としての1位は「Riot In Lagos」だと思う。アルバムなら「out of noise」だけど、80年代を挙げろというのなら迷わず「B-2 UNIT」を挙げる。

MCは全て聞き取って帰った。当時の手帳に書き残してある。
アンコールで、サポートメンバーの三人がYMOシャツを着て出てきたこともきちんと書き残してあった。
当日披露された新曲「Rescue」は、のちに「News23」で聴くまでカヒミカリィあたりの声だと思っていた。現在もたまに演奏されている「Everybody Had A Hard Year」も、Marzのカバーだとは知らなかった。

夢のような時間があっという間に終わって、パシフィコ横浜に迎えの車が来た。
帰りの車の中でも興奮が冷めやらなかった。
自分はほんとうにYMOを見たのだ。夢にまで見た曲「Riot In Lagos」が演奏されたし、「音楽」では教授も、幸宏さんも、細野さんも、歌ってくれたし、なんとアンコールの「Cue」では教授がドラムを叩いていて、これは夢かしら、と思ったのだった。

それから10年も経つ。

あの時買ったTシャツは、処分してしまった。
RYDEEN 79/07」の宣伝用のTシャツもサイズが大きかったから処分したのだと思う。誰かにあげればよかったけど、その時は既にファンのネットワークみたいなものから少し外れたところに居たから、誰に声をかけるでもなく、普通に処分してしまった。
WORLD HAPPINESSも、3回目までは毎年行っていたのに、それからぱたりと行かなくなってしまった。
当時付き合っていた人との時間を優先したのだ。

この10年の間に何があったかと言えば、私は絵をあまり描かなくなり、大学生を経て社会人になってしまって、あの頃みたいにYMOばかり聴いているわけではなくなってしまった。最近のお気に入りは原摩利彦だ。あんなにたくさん見ていたDVDの類も、見る時間があまりなくなったからという理由でディスクユニオンに全て送りつけてしまった。必要になったらまた買うだろうと思う。
あのライブに行ってなかったらどうなっていただろう。
後年、知り合ったYMOファンの人たちに聞いたら、ほぼ皆あの場に居て笑ってしまった。どこかですれ違っていた。私たちぐらいの年齢の子も居たんだろうな。当時は珍しかったけど、その「若いのにYMOなんて聴くのね」という語は、今度は私が誰かに投げつける番になった。実際、去年末のMETAFIVEの時に誰かに投げつけたかもしれない。

今でも恋人には知識量を驚かれるけど(たとえば「渡辺香津美の消されたギターの演奏聴きたい」と言われれば「それはfaker holicに入っているね」と即答出来る程度には。とはいえ恋人はYMOがさほど好きではないので、ファンの間では勿論常識であることを普通に返しているだけである)、10年前ほどの熱はない。
ありとあらゆる出来事、ここに書けないようなことも含めて、私にもうそこまでの熱はないのだと思う。

あの時、高橋幸宏のコスプレしてた方とか、坂本龍一のコスプレをしていた方たちは今もそういう服装なのだろうか。
細野晴臣のコスプレは見かけなかった。やるとリアルにおじいちゃんになるからだと思う。私も男だったら一度ぐらいは高橋幸宏のコスプレをしたかもしれない。銀座のDSMで頑張ってトム・ブラウンのカーディガンを買うかもしれない。
今でも「YMOシャツを着る」「YMOのコスプレをする」という夢はあるけど、まだ実現していない。どうせやるなら、コミケでスペースを取って、分かりやすくやりたい。

いかに自分がYMOから離れてきたかと書いてはみたものの、先日の坂本龍一ナガオカケンメイトークイベントには馳せ参じたし、なんなら話されていたことを8割はメモして帰ってきた。10年前もそんなことをしていたから、その辺りの趣味は全く変わっていない。
設置音楽展にも行ったし、WORLD HAPPINESSのチケットも久しぶりに取った。
リブートせよとHASYMOが言う。

10年前の私ほどの熱はないけど、これからもお三方を見ていると思う。気にしていると思う。
近年はまた、お三方方面に興味が戻ってきた節がある。
また10年後、そうそう、私HASのライブ行ったな、って思い出すのかもしれない。