ネコミミ新世界

日記その他もろもろ

死ぬときぐらい好きにさせてよ

タイトルは宝島社樹木希林の広告。
宝島社 企業広告 2016年

祖母が亡くなったのは二年前だと思う。
でも、それまでのことをずっと覚えている。記録にもある。

2010年。
小沢健二の「ひふみよ」ツアーで取れたライブに行くために、
渋谷のモスバーガーで「食べるラー油バーガー」みたいなものを食べているとき。
母からメールが届いた。
「ようやくママ*1の受け入れ先が決まりました。これからは生活を立て直していきましょう!」
そんなようなメールだった。
ラー油バーガーを食べながら、私は涙で一瞬前が見えなくなった。

それまでのことをよく覚えている。
家族の団欒の象徴だった、リビングのコタツと、キッチンの食卓には
家族の誰一人寄り付かなくなった。
何度か民生委員に虐待を疑われたこともある。
怒鳴り声が聞こえたのだという。
言ってもわからないのだから仕方ない。
祖母に注意しても祖母には分からなくなっていて、
こちらも限界だった。

そんな日々が続いたとき、ようやく老人ホーム*2に入ることができたのだった。

6月10日。
母の何度目かの誕生日だった。

それからは、母ぐらいしか祖母に会わなくなっていった。
私は祖母に会いたいような、会いたくないような、
いや「会いたい」という気持ち自体が偽善的だな、という微妙な感じになってしまって
結局入院するまで会わなかった。

唾液が肺の方に入ってしまって炎症を起こしている、として
祖母が入院したのは、二年前だったと思う。
久しぶりに見た祖母はなんだか痩せていて、意識はなくて、眠っていて、おばあさんになっていた。

その時の日記には「またしばらくの間会うことはないだろう」みたいなことを書いている。
その後すぐにもう一度会う。

LINEだったけど母からのメッセージは電報のようだった。
「ソボキトク カエレ」
そんなような文面だったと思う。
当時の上司に帰りますと言って、地下鉄を乗り継ぎ、
今度は死の淵に立つ(ヒューヒューと粗い呼吸をする)祖母を見たのだった。

病院の近くで父と食べたラーメンを覚えている。
母は食欲がないから、と言い、父と二人でラーメンを食べた。
一杯500円もしないラーメンはまあまあ美味しかった。

祖母はその翌日の朝方に亡くなった。

橋本壽賀子のニュースを読んで祖母が尊厳死協会の会報を読んでいたことを思い出した。

安楽死提言の橋田壽賀子、その胸中と覚悟を明かす (NEWS ポストセブン) - Yahoo!ニュース

祖母が尊厳死協会の会報を取っていたのを思い出す。結局認知症になって、肺からひゅーひゅー音を立てて、最後はたぶん合併症で亡くなってしまったけれど「死ぬときぐらい好きにさせてよ」ということなのかな…

2016/11/18 13:12

安楽死が制度化されていたとして、祖母はそれを選んだだろうか。
ただ「みっともないのは嫌だ」という感じだったのだと思う。
近所の方々が祖母に関して「もうボケもなくなって、今はまともになってるよ」というようなことを、
遺影を見ておっしゃっていたのが印象的だった。

お盆の時期の話。
夜、帰ってきた父が「玄関が線香臭い」という。
母が「そんなことないよ」というけど、たしかに線香のにおいがした。

「あれじゃねーの、ちゃんとお盆とかやってくれってことじゃないの」
父が言う。

いや、たぶん、あとで思えば私がなくしたと思っていた鳥獣戯画の扇子に線香のにおいが付いていて、
それがリビングにあったからだと思うんだけど。
(でもリビングに置いた覚えはないので、やっぱり祖父母のどちらかが置いておいたのかもしれない、なんのために)

*1:祖母のこと

*2:特別養護老人ホーム。介護度が1とか2だとほんとに難しい